【17】 你好再見

眼が覚めたときにはもう遅かった。


午後4時。
旅の最終日。


分厚いカーテンのせいで外の様子は伺えないが
もしかしたら空はもう茜色かもしれない。
本当は温泉に行こうと思っていた。
中国ひとり旅の締めとして
日帰り温泉にでも行こうと思っていた。


だが、もう遅い。
温泉までは1時間以上かかる。
行ってしまえば
広州に帰れなくなるだろう。
即ち、明日早朝の日本行きの飛行機に乗れなくなる。
旅の疲れもあったが
4ツ星ホテルのベッドがあまりに心地良く
いつの間にか眠ってしまったようだ。
結果、今朝計画した温泉行きのプランは
わずか半日で早くも水泡に帰した。


焦っても仕方が無い。
大して移動もしていないのに
中国の広大さに影響されたのか
妙に落ち着いていた。
とりあえず最後に美味い飯でも食えればいいのではないか。
そう思いながら無意味に広いダブルベッドに腰掛け
タバコに火を点けガイドブックを捲る。


今まで安食堂や大衆レストランばかりで飯を食ってきた。
どこも美味かったが
最終日ぐらい高級レストランで本場の広東料理なんかも良いかもしれない。
そんなことを考えながらパラパラとページを捲っていると
とあるページで指が止まった。
蓮花山風景区・・・。
「新世紀の広州八景」・・・
国家観光局の定めたAAAA級観光地・・・
・・・そんな中国政府の評定が
何の参考にもならないことはこの5日間で充分実感していたが
山から海を仰ぎ見る
それはそれで、いや、山から海を見る、それだけは
素敵なことだと思えた。



リュックの中から
折りたたみ式の簡易リュックを取り出し
ガイドブックとタバコだけを入れて
4ツ星ホテルをあとにする。



バス停で蓮花行きのバスに乗る。
最初はぎゅうぎゅう詰めだったが
終点の蓮花に着くころには
乗客は俺を含めて3人になっていた。



蓮花地区は
良く言えば落ち着いた
悪く言えば寂れた町並みを広げていた。
ところどころ歩道が途切れている。
始発から終点まで
なんだかんだ1時間近くバスに乗っていたので
陽はもう暮れかかっている。
道路標識の矢印に従って進む。
十字路を左に折れる。
すると正面に蓮花山が現れた。


蓮花山は山というよりは
森林公園のような印象だった。
入り口に門があり
そこからアスファルトの道路がなだらかに上っている。
眼を細めながらその先を仰ぎ見る。
ちょうど太陽が山頂に掛かるところだった。
割と近い。
この距離なら30分も歩けば山頂に辿り着くだろう。


門の脇に立てられた小屋で入場料を払いパンフレットを貰う。


パンフレットに載っている
池だの岩だのといった観光スポットを流し見ながら
ゆっくりと坂を上る。
他の見物客とはほとんどすれ違わない。
時折ガイドカーのヘッドライトが山を降りてくる。
バスケットコートがある。
少年達が3on3をやっている。
背の低い少年が放った3ポイントシュートが
赤いリングに触れずにネットを揺らす。
ここは合宿所も兼ねているのだろうか。
学生寮かもしれない。


程なく頂上に辿り着いた。
目に見えて分かる丸っこくなだらかな地形。
中心には十層建てほどの古びた塔があった。
くすんだ白壁に赤茶けた縁取りがしてある。
各階層ごとに黒い屋根が囲っている。
屋根には小さな鈴が
幾個も取り付けられていた。
それが風に揺れるたび
カラカラと乾いた鉄音を響かせる。



ここが終着点のような気がした。
この蓮花山の頂上が
旅の終わり。



強い風が吹いた。
海からの風だ。



塔に飾り付けられた数々の鈴が
一斉に乾いた音を鳴らし始める。



その音に呼応するかのように
遠くで大きな鐘の音が
ゴォーンゴォーンと
6度響いた。



風上に眼を向ける。



いよいよ青色を失った海の向こうに
太陽を失った空よりも黒い大地。
淡い灯火が連なっている。
黒い画用紙に滴り落ち
滲んだオレンジ色の水彩絵の具のように。



あれは香港だろうか。







― 完 ―