【4】安全地帯


懐には約5万円分の中国元。
思いのほか中国の物価が高そうだったので
飯を食った後、その辺にあった市銀のような銀行で両替を行なった。
両替には1時間ほどかかった。
中国人は心配性なのかもしれない。
多くの中国人と出会ったわけでもなく
まだまだ2日目
しかも文化も言葉も北とは異なる南中国、
それでも、中国人は心配性なのだなぁと思うシーンが多い。
銀行の行員も例に漏れず
ヴィザがいるだのいらないだなどで
なかなか両替が進まない。
周りの同僚に相談し
マネジャーに見解を求め
本社に問い合わせ
それでも要領を得ず
インターネットで調べ
挙句、政府に問い合わせ
やっとのことで両替が完了する。
ヴィザを取得していない異国人が
場違いに外貨両替をしに現れただけで小さな銀行内は大パニックだ。
どっかの国のやつらとは正反対である。
禅にも似てこの世の全てはノープロブレム、
両替のついでにマリファナも売りつけようとするどっかの国のやつらとは。
ただ、行員は心配性ではあったが
どっかの国のやつらとは違って
為替レートを秒単位で下げたり
電卓に細工をしたり
おもむろに札を抜き取ったりなどせず
正確に、丁寧に両替をしてくれた。


銀行を出ると
あの強烈な日差しは無くなっていた。
薄暗い雲が空を覆っている。


初日に見つけたセブンイレブンに立ち寄り
リンゴジュースらしき炭酸飲料をジャケ買い
北に向かって歩き出す。
地図によると北へ500メートルほど行ったところに
地下鉄1号線と2号線が交わる公園前駅があるはずだった。


リンゴというよりはリンゴ酢のような味のジュースを飲み干し
公園前駅がある大きな十字路が見え始めたころ
鼻先に水滴が当たった。
目の前の道路にぽつぽつと染みが出来る。
降り始めた雨はあっという間にどしゃ降りになった。


慌てて走り出す。
残り50メートルをリュックを揺らしながら走り抜け
公園前駅の地下鉄入り口に駆け込んだ。
まるでスコールだ。


まだまだ列車の出発までは時間がある。
この雨では傘も無く外を歩く訳にはいかない。
幸い、地下には駅だけでなく
地下街も広がっているようだったので
雨宿りも兼ねうろつくことにする。


地下街には数々の店舗が軒を連ねており
規模は新宿の地下街や広島のシャレオと大差ないようだった。
服屋、クレープ屋、お茶屋電気屋、携帯屋
場末の胡散臭さは無く、都会的で煌びやかだ。
中国らしく卓球場もあり
おっさんが黙々と壁打ちをしている。



しばらくうろうろ歩き回っているうちに最初の場所に戻ってきていた。
地下街に降りてくる人達の様子が変わっている。
皆、傘を畳んだままだ。
傘を持っていない人も多い。
人々が降りてくる階段の先を仰ぎ見ると
絵画のように四角く切り取られた入り口の向こうに陽の光が満ちていた。
雨は止んだようだ。


観光でもしてみようか。


地下鉄を乗り継ぎ
雨上がりの隙間を縫って
陳氏書院跡にでも行ってみることにする。


陳氏書院跡はその名のとおり書院の跡。
官僚試験を受ける者、官僚試験のために勉学に励む者
そういった者達を同族(つまり陳一族だろう)で支えるための書院だったという。
一族の者達だけが集まる代ゼミのようなものだろうか。


公園前駅からわずか2駅、陳家祠の駅から
未だ乾かぬ階段を上り、外に出る。
雨上がりの街がきらきらと輝いている。
ビルも車も道路も
皆、陽の光を反射している。


街角のオープンカフェから漏れ聞こえてくるのは
「ワインレッドの心」の中国語カヴァー。
タマキコ氏は海を渡ったらしい。


道行く人々に道を聞きながら陳氏書院跡を目指す。
そのうち徐々に市街地を離れ
石造りの家屋が並ぶいわゆる裏路地のような通りにぶつかる。
家屋と家屋の間を電線が絡まりそうになりながら張り巡らされている。
窓やドアが無い家もある。
この天候で乾くはずも無いのに
洗濯物がたくさんぶら下げられている。
悪く言えばスラム街かもしれない。
ただ、こういう場所こそ雨上がりが良く似合う。


陳氏書院跡はその奥にあった。


正直、どうということは無かった。
ただの広く古い家屋だ。
古人はここで昼夜勉強したのだろうが
俺は勉強不足で歴史的価値も良く分からない。
アーグラー城やスーリヤ寺院には
有無を言わさぬ説得力があったが
ここにはそれは無い。


再びの雨。


この雨の中、街に戻るのも億劫で
書院内にあった石造りの椅子に腰掛け、本を読む。
100年も前の書院跡で本を読むというのも贅沢かもしれない。


雲は薄く、隙間から光が漏れているにも関わらず
中庭の石畳には雨が強く打ちつけていた。




― 続 ―





地下鉄の切符は
タッチパネル式の券売機で購入。
切符はプラスチック式のコイン。



雨上がりの路地。
この先にさらに進むと
スラム的なドッグがいそうな
細い裏路地にぶつかる。



陳氏書院跡。
こう見ると割りと良いとこかもしれない。