第30章 煙を吐いても ― in Bhubaneswar ―


掃除のおばちゃんが
竹ぼうきでせっせと床を掃除している。
所在無い我々はベッドの上。
天井ではプラスチック製のファンが不安定に空気をかき回している。


ここはホテルSWAGAT。


この宿に我々を連れてきたサイクルリクシャーのおっさんは
確かグッドでチープな宿を紹介してやると言っていった。
いまのところグッドな要素はなにひとつない。
チープではある。
ただし、チープなのは部屋の造りだけ。
宿代は割りに高い。



ただ、不思議な雰囲気はある。



薄く霧のかかった朝、列車はブバネーシュワルの駅に到着した。
吹く風が涼やかで
北インドに到ったことを実感する。


大きなホームの割りにはこじんまりとした駅舎を出ると
小奇麗なロータリーが広がった。


「ヘイ!リクシャー?!」


早速、リクシャーワーラーが登場。
大都市や観光地ほどでは無かったが
それでも何人かのリクシャーワーラー達が我々を囲む。


「ヘイ!ホテェル?!」


あ、そうね。
まずは宿の確保だ。


リクシャーワーラーは口々にホテルだリクシャーだ言っているが
取り急ぎガイドブックで地図を確認。
どうやら我々は安宿街とは逆側に出てしまっているようだ。
安宿街までは線路を跨いで約2キロ。
リュックを背負って歩くにはしんどい距離だ。


「うーーん、サイクルの人いる?」


リクシャーワーラー達に返事をする。
距離を考えると
歩くのはだるい。
原付タイプのオートリクシャーに乗るほどでもない。
三輪自転車の後ろに客席をつけたサイクルリクシャーがぴったりだ。


「オレだ!オレはサイクルだ!カモンッ!ジャパニ!乗れ!!!」


中年の男が大きく手招きをする。
そのまますんなり乗りはしない。
まだ行き先も告げていないし
当然、料金の交渉もしていない。


おっさんに地図を見せる。


「とりあえずこの辺に向かってくれ。」


「OK。カモンッ!!」


「ハウマッチ?」


「おまえら3人か?!3人は無理だ!こいつのリクシャーと2台に分かれて50ルピーずつだ!」


サイクルのおっさんは
隣にいた別のおっさんを指差しながら50ルピーずつの2台体制を強要。


「50ルピーずつ?!高い!!」


「モーニングプライスだ!!」


なんだそれ?!


「30だ!30、30で60ルピーだ!!」


こちらはサイクルのおっさんと隣のおっさんを交互に指差し30ルピーずつを提案。
もう少し値切れそうな気もしたが
60ルピーならひとり20ルピーと3人で割りやすい。


「うーーーん、OKだ!カモンッ!!」


おっさんは一瞬顔をしかめたが
意外にもあっさり交渉は成立。


おっさんはすたすたと自分のサイクルリクシャーに向かい歩き出す。
我々も付いていく。
とりあえず俺ひとりとU君とナベタクの2人の組に分かれるか。


サイクルのおっさんは勢い良くサドルにまたがり
後ろの座席を指差した。


「乗れ!!3人とも乗れ!!!」


「えっ?3人乗れんの?!」


「ひとり後ろ向きになればノープロブレムだ!!」


座席は2人がぎりぎり座れるほどのスペース。
本当に大丈夫か、これ?!


「60ルピーならオレひとりで行く!!!」


なんて商売根性だ。
そのつもりであっさりOKしたのか。



2人が前向きひとりは後ろ向きという
極めて不安定な客席をひっさげ
おっさんはゆっくりと腰を浮かせた。


最初から立ちこぎ。
両足のペダルに交互に全体重をかける。


ギィギィと軋んだ音を響かせながら
サイクルリキシャーが走り出す。


車輪がカタカタと音を立てる。


途中、ゆるい上り坂に差し掛かり
こぎきれずサイクルを押すシーンもあったが
一旦下りになると
どんどんスピードは上がっていった。


吹き抜ける風が気持ちいい。


「ジャパニ!ホテルは決めてるのか?!」


息を切らせながら
後ろを振り向かずにおっさんが尋ねる。


「あぁ、ホテル・ブバネーシュワルに行ってくれ!」


おっさんの背中に
ガイドブックに載っていた無難そうな宿の名を告げる。


「ブバネーシュワル?あそこはダメだ。高い!しかもいつもフルだ!
 オレがグッドでチープなホテルに連れてってやる。」


リクシャワーラーお勧めの宿に連れて行かれて
グッドだったためしは無い。


「いや、いいから行くだけ行ってみてよ。」


「うーーん、どうせフルだぞ?」



渋々ながら
ホテル・ブバネーシュワルに連れて行ってもらうも
「フルだ!」と言われ門前払い。


「ほら見ろ。やっぱりフルだったろ?!」


サイクルのおっさんは妙にうれしそうだ。


「オレのお勧めのホテルを紹介してやる!!」


どうしても連れて行きたいようだ。
もちろん紹介料が貰えるのだろう。
しかし、他に宿の当てもなかった我々は
そのお勧めのホテルとやらに連れて行ってもらうことにする。



宿は大通りから外れた細い路地の突き当たりにあった。
風通しも日当たりも悪そうな古いビル。
『HOTEL SWAGAT』と書かれた
色褪せた看板がぶら下がっていた。



それが1時間前。


それにしてもしょぼい部屋だ。
いま、掃除のおばちゃんが我々の部屋にいるのだって
前の客が残したゴミを掃除するため。
バスルームのシャワーも出ない。
夜は腰の高さほどに埋め込まれた蛇口からの水を浴びるしか無さそうだ。
さっき受付のおねぇちゃんに
灰皿を要求したのだが
持って来る気配は無い。


考えてみると、インドの安宿で女性が受付をしているのは珍しい。
少なくとも俺は初めて見た。
オレンジ色のパンジャビドレスに身を包んだ
利発そうな女性だった。



「飯でも食いに行くか?」


朝食は大通りにいた流しの屋台で。
U君とナベタクはドーサを食っていたが
ドーサが苦手な俺はヴァダを注文。
豆粉の生地をドーナツ状にして揚げたヴァダに
付け合せのちょっとしたカレーがついてきて10ルピー。
朝食にしてはやや重い。
食い始めてから後悔。


少し散歩して宿に戻る。


「アッシュトレイ、プリーズ。」


部屋に戻り際
受付のおねぇちゃんに灰皿を再度要求してみる。


「オーケー。あとで持っていくわ。」


帳簿に何かを書き込んでいた彼女は
我々をちらりと流し見てそう言った。



そのうち昼になった。
オレの携帯灰皿には3人分の吸殻が突き刺され
いまにも零れ落ちそうだ。


宿を出て
駅に向かう。


駅でブバネ⇒プリー間の2等座席を予約。
この区間の列車チケットだけは
ハイデラバードで予約していなかった。
ブバネに到着する前にヴィジャヤワーダを経由する羽目になった場合
日程の調節が必要だったためだ。



帰りにハエの群がる暗い安食堂で
パニール(インドのカッテージチーズ)のカレーと
ナスとジャガイモのカレー定食で昼飯。


店構えはかなり危険だったが
味はなかなか。
となりのおっさんは青唐辛子を生でガジガジかじっていたが
そこまでの勇気は出なかった。


帰りに売店でマンゴージュースとタバコを買う。
ナベタクは缶のペプシ


「あれ?缶にすんの?」


インドで缶ジュースはあまり見かけないし
あっても持ち歩きにくいのでそうは買わない。


「飲んだあと灰皿にするんっすよ。
 来ないっしょ。灰皿。」


また、部屋に戻り際
受付のおねぇちゃんにダメ元で言ってみる。


「アッシュトレイ、プリーズ。」


「オーケー。あとで持っていくわ。」


もはやただの挨拶だ。



その後は、寺院町のここブバネーシュワルで寺も見に行かず
しょぼい部屋でファンに吹かれながら読書。
なんせ腹の調子が悪い。
ハイデラバードでのロイヤルチャレンジは失敗に終わった。
どうやらインドビールにあたる傾向にあるらしい。
昨日から下痢が続く。
今日一日は明日からのプリーのため安静にしておこう。


硬いベッドの上で枕をクッション代わりに使い
U君の持ってきた『青年は荒野をめざす』を読み耽る。
この何をするわけでもない
ゆっくりとした時間の流れも好きだ。
時折ページから目を離しては、タバコに火を点け、物思いにも耽る。



それにしても不思議な雰囲気の宿だ。



受付のおねぇちゃんは
いや、もしかしたら我々より年下かもしれない、かなり若い。
そしてやたら細かい。
チェックインなぞ適当に帳簿を埋めパスポートを見せたらそれで終わりってことも多いが
ここではパスポート番号や住所、どの町から来たかなど事細かに書かされる。
そのうえ少しでも読みにくい数字があるとやたらと突っ込んでくる。
「なに?その字は?1なの?7なの?
 『1』なの?!
 『1』はこうよ!
 下にこの線が無いと『1』じゃないの。分かった?」
そのくせ灰皿はいくら頼んでも持ってこない。


受付のおねぇちゃんの斜め後ろには
がっしりとした体格の宿主らしきオヤジが
いつも目をギラつかせて座っている。
仕事をしている様子は無い。
まれにおねぇちゃんになにか尋ねると
代わりに唐突に答えるくらいだ。
もちろんこのオヤジも我々が灰皿を欲しているのを知っているが
その重い腰を上げることは無いだろう。


従業員もひどい。
ホコリまみれのエクストラベッドを持ってきたちょび髭の背の高い男は
乱暴にベッドを組み立てたあと
チップとしてタバコを何本もかっさらっていった。
この男に灰皿を要求しようものなら
タバコを何箱持っていかれるか分かったもんじゃない。


「俺、もうエクストラベッドでいいっすわー。」


ナベタクが声を上げた。
エクストラベッドが完成し
だれがそこで寝るのか、じゃんけんをしようとした矢先だ。


「もはや硬いベッドじゃないと寝れんし・・・。」


これで前回、インド全行程をエクストラベッドで過ごしたO野峰に続き
この魔性のベッドに魅入られた男がまたひとり。


不思議な雰囲気の宿だ。


灰皿代わりのペプシの缶には
まだまだ余裕がある。



夜、U君とナベタクは飯を食いに出かけていった。
俺は近くの売店でバナナと水を買って宿に戻り
それを夕食とした。
明日までに体調を元に戻すためだ。
明日のため。
すべてはヒンドゥー教の聖地
そしてインドバックパッカーの聖地でもある
プリーのため。



電気をつけたまま
ベッドに仰向けになる。


天井では青いファンが相変わらず不安定に回っている。
夜は、やはり気持ち南インドより涼しい気がする。
良い夜だ。
寝るにはまだ早いかもしれない。


ゆっくりと身体を起こし
タバコに火を点ける。


ゆらゆらと昇る煙が
ちょうど目の前を通過したぐらいで
ファンの起こす風に捕まり
今朝の霧のように広がって掻き消える。


長くなった灰を
ペプシの缶の中に落とす。



灰皿は来ない。










つづく