第16章 メヘラーンガル


ヨシダ君の方位磁石が差す北に向かって歩く。


入り組んだ路地が続く。
低い屋根の民家が両脇に並ぶ。
ヴァラナシの路地に似た
下町のような雰囲気。
散歩しがいがある。


次第にメヘラーンガルの姿が大きくなる。
なだらかな上り坂が続く。


雨に濡れた道は
スニーカーでは滑りやすいので注意が必要だ。
時折視界に入ってくる
豪快な牛の糞にも気をつけねば。


雨上がりのジョードプルはインドの割りに肌寒く
寝台列車で睡眠不足の我々にとって
砦へと伸びるこの上り坂はそれなりにしんどかった。
それでも、一息つきがてら
上り坂の途中で振り返れば
眼下にジョードプルの街並みが広がる。
ブルーシティの名のとおり
薄く青色に染まった家々が並ぶ。
雨上がりで靄がかった風景。
蒼白の曇り空。
町が徐々に空に溶け込んでいくようだ。


息を切らしながら石畳の道を登りきると
石造りの大きな門があり
その向こうに荘厳なメヘラーンガルがそびえていた。


門の横に管理人小屋のようなものがあり
その前に「NO VEHICLES」の看板がある。
ここまでバイクや自転車で来るのはどう考えても無理な気がするが。


門のところでテロ対策の持ち物検査。
日本人というだけでかなりゆるい。
チェックを抜けた次の建物のところで
入場料を支払う。
入場料300ルピー、カメラ持ち込み料100ルピー。


その後、突然の豪雨。
いわゆるスコールだ。


折り畳み傘はあるが
3人は入れない。
ひとまず屋根のあるところへ。
従業員の当直所なのか、もとは警備兵の待機場所なのか、
壁はないが屋根はあるちょうどよい感じの小屋に駆け込む。
何人か先客の欧米人たちが雨宿りをしている。


石造りの屋根を叩く雨の音。


濡れたシャツを着たヒゲ面のインド人が
たるんだ腹を揺らしながら
目の前を走り抜ける。
続いて色鮮やかなサリーを着た女性たちが
キャアキャア笑いながら
足元に水しぶきをあげて走り抜けて行く。
あまり雨宿りという文化は無いのかもしれない。


10分ほどで雨はやんだ。


雨上がりの砦内外を散策する。


砦の外壁に
無数の手形の浮き彫りがある。
これはサティというこの地方の習慣を表すらしい。
寡婦殉死。
王が死に、火葬されるときに
妃たちは一緒に炎の中に身を投じて
あとを追ったという。
インド叙事詩ではシヴァの嫁であるサティが
シヴァとの結婚を快く思わない親父への中2反抗期的反抗心によって
火中に身を投げ、パールヴァティーとして転生する。
そのあたりの神話とも関係があるのだろう。
この儀式はインドネシア、バリのバリ・ヒンドゥーにも繋がり
犠牲者の妻が現世への未練により彷徨う場合は
鬼女ランダとなる。


そのほかにも見所は多かった。
巨大な砦を散策する、といった行為自体が新鮮だったし、
屋内に飾られた、当時の様子を描いた細密画、
30畳はあろうかという寝室と
その中心にぽつねんと横たわる王の寝具、
金細工や鏡や色ガラスをふんだんに使った煌びやかなリビング。
そこらかしこのテラスからは
ジョードプルの街並みが見渡せる。
絶景。
それは見張りのためという意味もあっただろうが
それ以上にその美しい景色を
季節の遷り変わりと共に愛で
暑いときも乾いたときも
絶えず高台ならではの快い風を浴びることが出来たという贅の極み。
砦というのはあくまで建前、
贅を尽くしたこれが王のための家。
これが王の暮らし。
それが垣間見えた。


しかし、しばらく歩いているうち、ふいに腹痛に襲われる。
俺もそれほど万全の体調では無さそうだ。
自分より体調の悪そうなF田氏が頑張っているなか申し訳なかったが
帰りを急ぐことにする。


砦の出口へと向かう途中、
音楽が聞こえる。
砂漠に似合いそうなエキゾチックな音楽。
現地のミュージシャンが演奏をしていた。
ここラージャスターンの地は
楽家の地としても有名だ。
不思議な旋律。
ドレミファソラシドを基本とする
現代音楽で使われない、短三度でも長三度でもない
その間の純粋な三度の音。
そんな音のような気がした。


砦を出た帰り道。
途中でヨシダ君が声をかけられる。
声をかけてきたのは
背の高いオシャレな男。
見た目は欧米の若者だが
流暢な日本語を話す。
日本人と欧米人とのハーフらしい。
高い鼻、深い彫り、中性的な顔立ち。
映画にでも出てきそうなイケメンだ。
隣にこれまた美人な女性を連れている。


ヨシダ君がダイアリーを失くした話など
2、3言葉を交わして別れる。


「あれは確実にモテますね。」
と割りとモテそうなF田氏が言った。


「モテるんでしょうねぇ・・・。」
ヨシダ君は遠くを見ながらつぶやいた。







― つづく ―