第20章 Epilogue ― in Mumbai ―  


早朝、ムンバイの駅に降り立つと
例のごとくタクシードライバーやリクシャーワーラー
たくさんの客引きに囲まれた。


声を掛けてきた客引きの中に
ターバンを巻き
銀縁の眼鏡をかけ
長いヒゲを蓄えた恰幅の良い男がいた。
スィク教徒だろう。


我々はなぜかなんとなくそのヒゲターバンの男を選び
交渉もろくにしないまま
そいつのタクシーで空港に連れて行ってもらうことにした。


ヒゲターバンに連れられ
タクシーを止めているという空き地へ。


そこにあったのは
タクシーではなくおんぼろの乗用車だった。
まぁインドでは良くある話だ。


タクシーという名のおんぼろ車に乗り込むと
ヒゲターバンは助手席に座り
運転席にはみすぼらしい別の男が乗ってきた。
まぁこれもインドでは良くある話だ。


重々しくエンジンがかかる。


「ところで空港までは何ルピーだ?」


俺はいまさら何を聞いているのだろう。
車はもう走り出している。


「ははは、ジャパニ。心配するな。このタクシーはメーター制だ。
 メーターが適正料金を表示してくれる。ノープロブレムだ。」


助手席のヒゲターバンは
にこやかに答えた。


そうか。メーター制だから安心なのか。


なぜか納得した。
多分疲れていたのだろう。



ムンバイは大都会だった。
道路の両脇に立ち並ぶ無数のビル群。
東京でもあまり見ないような壮麗な高層ビルも
今にも崩れそうな廃ビルのようなビルも
ところ狭しとごちゃ混ぜになり
そのわずかな隙間から
道路がはみ出しているような印象だった。
交通渋滞もうわさに聞いていたよりもひどく
チェンナイやデリーなど比にならないほど
街は車と排気ガスで溢れていた。
人口約1400万。
うち半数はスラム暮らしだという。
今のインドの象徴はここムンバイかもしれない。
カルカッタのイメージが富も貧も聖と俗もごちゃ混ぜになった「混沌」なら
ここはあまりに光と影が二極化されているようであった。



10分ほど走ったところで
車は除々に減速し
程なく完全に止まる。


「オー、ガス欠だ。エンジンが止まってしまった。」


振り向いて残念そうな顔をするヒゲターバン。


・・・・・
そして沈黙。


えっ?そんだけ?
なにその作ったような残念そうな顔!?
なにこの仕方が無い的な空気!?


「いやいや、まだ空港着いてねぇじゃん!!」


「でももう車は動かない・・・。空港はもうそこだ。歩いて行ける。ノープロブレムだ。」


はぁ?!俺ら客なんですけど!


「いや、もういいや。めんどくせぇ。ここで降りるわ。何ルピーだ?」


たいした距離は走っていない。
メーターなら50ルピー程度だろう。
インド的に「お前らを乗せたせいでガソリンが無くなった」とか
訳の解らない持論を展開されて吹っかけられたとしても
せいぜい100ルピーぐらいか。


そのときヒゲターバンがニヤリと笑って
料金メーターに被さっていた布を引き抜く。



ジャジャーーーーン!
出ました!!1500ルピー!!



って、アホかぁーーーー!!?



やられた!
油断した!
気を抜いていた!
ここはムンバイだ!
もう穏やかな南インドじゃないんだ。
なんで俺は交渉もせずにほいほい付いて行ったんだ?
なんで俺は最初にメーターの始動を確認しなかったんだ?
それよりなんで俺は布の被ったメーターを不審に思わなかったんだ?
迂闊!迂闊!迂闊!


いやいやいやそれより1500ルピー?!
相場の30倍じゃねぇか!?
そんなんアリなのか?!
こいつらバカなのか?!


「ジャパニ!1500ルピーだ!!」


「ばかやろう!どこをどうやったら1500ルピーになるんだ?!」


日本のタクシーより高いわ!ぼったくるにしてももうちょっと自粛しろ!


「ジャパニ。メーターは1500ルピーを指している。1500ルピーだ!」


「どう考えてもチート(イカサマ)だろ!!払うか!バカ!」


「なんだと!金払え!!お前らのせいでガソリンも無くなったんだ!!」


ヒゲターバンを差し置いて
ふいにキレる運転席の男。


運転席の男が怒声を発し
ヒゲターバンが諭すように金を要求する。
飴と鞭のつもりだろうか。
ひどいぼったくり方だ。


「話にならん。・・・まぁほいほい付いて行った俺らにも落ち度はあるし
 勉強代として600ルピーだけ渡して降りようぜ。」


「そうだな。もうあとは帰るだけでそんなにルピーも使わないし。」


我々は手持ちのルピーを集め
100ルピー札を6枚
運転席の男に渡す。


「ほらよ!600ルピーだ。充分すぎるだろ!」


「600ルピーじゃない!1500ルピーだ!!」と文句を言いながらも
札を数える運転席の男。


1枚・・・
2枚・・・
と、その時3枚目を手首のスナップを効かせて
自分の背後へ抜き投げる。
そして
「ジャパニ!500ルピーしか無いぞ!!」


「バレバレじゃ!!アホ!!
 インドネシアの少年のほうがまだ上手かったわ!この下手クソ!!」


もういやだ。
ぼったくられたこと自体よりも
こんなぼったくりシロウトみたいなやつらに
まんまと捕まってしまったことに腹が立ってきた。


「そこだそこ!そのブレーキのとこだ!
 お前がさっき抜いた100ルピー札が落ちてるだろ!」


若干慌てだす運転席の男。
つーかあんなテクニックで騙せると思ってたのか・・・。


「おぉ本当だ。こんなとこに落ちてたのか・・・。」


とわざとらしく言いながら
振り向いてブレーキペダルの傍の100ルピー札へ右手を伸ばす。
そして、左手の100ルピーを座席の下を通してこっそりヒゲターバンへ。
それをくしゃくしゃに丸めポケットに仕舞うヒゲターバン。


・・・あのーーそれバレてないとでも思ってるんですか?


我々のほうを向き直って運転席の男
「ジャパニ!これを足しても400ルピーしかないぞ?!」


「なんで減るんだ!!?」


もう付き合ってられん。


なおもごちゃごちゃしゃべる2人のインド人を無視して
車を降りる。


「じゃあな!」


車を降りたあとも
運転席の男は窓から何か叫んでいたが
それも無視して空港に向かって歩き出す。




アスファルトを滑る陽の光。


少しして振り返ると
車の中で
ヒゲターバンと運転席の男が
満面の笑みで金を数えている姿が見えた。